無数のガラスの破片が突き刺さるのを感じて、蒼星石は緩く瞼を開けた。
先程まで感覚のあった身体が、徐々に言うことを聞かなくなってくる。手や腕が、軋みだす。

何があった…?

……そうだ。これはアリスゲームだ。マスターの願いを叶えるために、自らが望んだことだ。

彼を解き放つためにアリスゲームに望んで……戦ったんだ。

──誰と…?


『蒼星石! 蒼星石!!』


何だろう。誰かの声が聴こえる。聞き覚えのある、ひどく懐かしい声…

何度も繰り返し呼ばれるそれは、自分の名前。止むことなく、何度も何度も繰り返される。
誰が呼んでいる? マスターではない。もっと別の…大切な誰か。


ゆっくり、ゆっくりと、瞼を開けた先…大粒の雫が頬に落ちた。呼び続ける名と同じように、それも止むことなく。
止め処なく零れ落ちる"それ"は…今までずっと見てきた少女の瞳からだった。


「……翠星石……」


霞む視界に映る少女に、ようやく頭が理解する。

……ああ、そうか

翠星石と戦って…負けたんだ……


「また……泣いてるの…?」

紡いだ名、紡いだ声に、目の前の少女はまた涙を零す。
涙で声が途切れ途切れになろうとも、蒼星石の名を呼ぶことはやめない。

翠星石が掌を取る。指を絡めて、ぎゅっと握り締めた。
蒼星石も握り返した。感覚のなくなってくる掌で、そっと、姉の涙を拭う。

絡む姉の指先が震える。温もりの感覚すらないはずなのに、その想いが伝わってくるようで。
薄れていく意識の中でそれでも思うことができる。なんて、あたたかい掌なのだと…


双子として生み出された存在。特別を感じることのできる、ただひとりの者。
互いの存在が誰よりも大切で…当然のように、互いに惹かれ合った。ずっと共に在り続けたいと願った。
惹かれ合ったことが自然の摂理ならば、終焉の時も…当然共に迎えるはずだった。

今、自分は、姉を残して終わりを遂げようとしている。

その事実を告げても、彼女は否定を貫き通すだけ。断固として肯定などしない。

その姿に込み上げてくるものは、行き場のなかった苛立ち。姉の泣き顔を見る度に胸の奥に燻っていた焦燥が、憎しみへと変わっていく。
己の心を表すように、鏡に映るように、本来の姿へと戻っていくように。

「……君の…泣き顔は……僕の…鏡の素顔を…見るようで……」

軋む指先に、また力が込められる。弱々しくも握ってくる姉は、相変わらず泣き続けるだけ。
零れた涙が、指先に、掌に、そして頬に落ちていく。
最早拭うことも叶わず、すでに力を失った手に、それでももう一度力を込めて、握り返した。


───そう…。昔からこうして互いに掌を重ねてきた。いつだって、どんな時だって…記憶の中のふたりは共に在った。
手を繋いで、指を絡めて、微笑み合って…
大好きで、大好きで、大好きな姉。でも本当は、ずっと、ずっと───


「大嫌いだった…」


ふ…っと一瞬意識が途切れる。
身体の感覚が全てなくなるように軽くなり、胸の奥から導き出されるように光の結晶が浮かび上がった。


自分たちローゼンメイデンの魂とも呼べるローザミスティカ。
アリスゲームに敗れた者だけが差し出す、アリスへの切符。


「僕は…も…闘えな……」

軋む身体。もうほとんどと言っていい、感覚がない。
腕も指も、軋む音しか聞こえない。声も掠れて…ろくに紡ぐこともできない。完全に停止するまで…あと僅かだろう。
だけど、このまま目を閉じてはいけない。そんな気がした。

もう一度目を開けて…この声に応えなければ。伝えたいことが、まだあるのだから。

「君の…勝ちだ……僕を……君の…一部に……」

ぼやける視界には、変わらず泣きじゃくる姉の姿が映る。
嫌だ嫌だと駄々をこねる子供のように、ただひたすらに首を左右へと振って…縋りついて来た。

抱きしめようと腕を伸ばそうとするけれど、もう上がらない。腕だけではなく、もう身体が…動こうとしない。


──そうか…これが終わるということ。アリスゲームの敗者としての最期。


望んでいた結末。充たされた願い。"自分"という影から抜け出せた、空虚なまでの達成感。
これでようやく自分も…"ひとり"になることができた。姉とは別々の、だけど同じように。

だから、もういい。もう…終わってもいい。

姉は…翠星石は、ひとりで歩ける強さをもう…ちゃんと持っているから。

「…やぁ…ですッ……蒼……せ……?」

泣きじゃくる少女。微笑み返す自分。止まらない涙と、愛。

もう目を開いている力すら保てなくて、再びゆっくりと、瞼を閉じた。
きっともうこの瞳を開くことはないのだろう。

飲み込まれていく意識に身を委ねる前に、まだ言い残したことが込み上げてくる。
これが最期になるならば、今の自分の気持ちを、今までずっと想ってきたことを…彼女に伝えなければ。

「翠……星石……」

最後の力を振り絞って、絡めた指先に力を込める。
感覚のなくなった身体で、遠退いていく意識の中で、姉の震えるような声だけがはっきりと聴こえる。
抱き寄せられる体。包み込むような腕の中は…ひどく心地よかった。

「大嫌い…だけ…ど……」

昔から共に歩いてきた、ただひとりの姉。
大切に想う反面、姉の持つ強い心を妬んだりもした。
だけどいつだって傍に居て、いつだって、彼女は微笑んでくれていた。

誰よりも嫌いなはずなのに、他の誰よりも愛している。

だから、これは今の自分の、素直な心───



「誰より……大好……だ…よ…」



思いの全てを、目の前の少女に伝える。

やっと伝えることができた喜びに満たされ、全身から力が抜けていく。
これでもう本当に思い残すことなく、彼女の一部として生きてゆける。




あたたかな涙が、頬を伝う。
強さとやさしさ、温もりと微笑み、そして、愛しさ。
その全てを与えてくれた、ひとりの少女の姿を瞳の奥に閉じ込めながら、やがて蒼星石は静かに眠る。
唯一、還りたいと願った場所で。




 Fin

 恋する10のお題より 07. 唯一
          (蒼星石と翠星石 Phase21より)



最期に辿り着いた、一番還りたかった場所