大好きだから応えたくて。
でも大好きだから 嘘はつけない。
離れていく心が───止められなかった
空ばかり見ていた(2)
──ざわざわ…ざわざわ──
人通りの多い商店街。行き交う人々の山。
賑やかな声が周囲を騒がすも、そんな声は聞こえなかった。
蒼星石の傍から逃げるように走り去った翠星石は、スーパーの店内をひとり彷徨っていた。
自分の心は…今ここに在らずの状態だった。
(…さっきのは…)
つい先程のことが鮮明に脳裏によみがえる。忘れられるはずがない。
握られていた掌(て)の温もりが、あの時強く握られていた痛みが、まだ残っていたから。
(蒼星石は…私のことを…)
やめてなんかいない。あきらめてなんかいない。
まだ強く想っていると…あの時の掌が、声が、そして痛いくらいの視線が、訴えていた。
まだ心臓がうるさく騒いでいる。息が苦しいほどに急かして…軽い眩暈すら引き起こす。
どうすればいいのか…またわからなくなってしまった。また…見失ってしまった。
きっともうあきらめているだろうと高を括っていた自分への戒めなのかもしれない。それを報いた、罰。
簡単な気持ちではなかった。そんな軽はずみな告白ではなかったこと…わかっていたはずなのに。
(……)
足が止まる。視線が床に向いたまま、ただ、その場に立ち尽くすだけ。
呼び込みの声が聞こえる。不意に視線を向ければ、広告の品が安く売り出されていて。
若い主婦やおばさんたちが一斉に買いに走っていた。
(来たからには何か買って帰らないとですね…)
仮にも「買出し」と言って出てきたのだ。このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。
言い訳がないし怪しまれるだろう。それに、買い出しておかなければいけないものも、あるにはある。
うじうじした自分をどうにか持ち直し元気付け、夕飯の買出しに向かうべく、再び歩き始めた。
☆
「何だかんだでちょっと買いすぎたですかね…」
一通り買い物が終了し帰路に着く。ひとりごちりながら、両手に提げた買い物袋をいったん下ろす。
そんな大して買うものなどないと思っていたのに、いざ巡ってみると意外にも多くて。
大安売りでもしていたらしく、ついつい手にとって買ってしまったのだ。次回に回せばいいものを…。
「さすがにこの格好で寄り道なんかできないです、よね」
どこの世界に両手買い物袋を持って道草を食う女がいるのか。想像してみたがあまりにも惨めな姿だ。というより恥ずかしい。
乾いた笑みを漏らしつつ、もう一度買い物袋を抱え、歩き出す。
吐く息の白さを眺めながら、空を見上げる。午前中は太陽の見え隠れしていた青空が、徐々に翳り始めた。
きっともうすぐで…雨になるのだろう。
(帰って…それからどうするですか…?)
空を見上げたまま、思う。その心は妹のことでいっぱい。
買い物で少しは紛れた気分が、曇り始めた空を見たことでまた込み上げてきた。
翳り始めた空のように、胸の奥も黒く翳ってくる。
このまま帰って、それからはどうする? 普通に接することができるだろうか。
また先程のような…目も合わせられなくなって…言葉も途切れてしまうような、気まずい雰囲気になるだろうか。
『返事は?』
真剣な顔で訊いてくる蒼星石が一瞬よぎり、肩が震える。
思わず立ち止まり、頭を振った。
またうるさく騒ぎ出す心臓の音が…胸を急かす。
今はただ家に着かなければいいということを、願うだけだった。
数十分後。特に何事もなく無事に自宅へとたどり着いた。
いくら速度を落として歩いていたからと言っても、やはりいつかは着くもので。
深くため息をつきつつ、一度だけ深呼吸をしてから、気を持ち直し、玄関のドアノブに手をかけた。
「…た、ただいまー…です」
自分的にはいつも通りに元気に言ったつもり…が、思ったよりも小さくなってしまった。
しまった…と後悔した矢先、居間のドアが開いて蒼星石が迎え出てきた。
「おかえり」
「! あ、は、はい」
「すごい量だね。遅いと思ってたらこんなに買い込んでたの?」
──…普通。あまりにも。それはいたってごく自然に。
「──あ、はいです。ちょっと安く売ってたもので…」
「そうならそうと言えばいいのに。やっぱり荷物持ちが必要だったんじゃないか」
蒼星石は苦笑しながら、翠星石の持つ買い物袋二つを預かる。
そしてそのまま姉の手を取って、早く入るようにと緩く引く。
「蒼星石…?」
「寒かったでしょ? 部屋、暖房入ってるよ」
「……」
翠星石も引かれるまま、靴を脱ぎ家の中へと足を運ぶ。
部屋の中は暖房が効いてあたたかくて。冷え切った体がゆっくりとあたたまっていく。
コートを脱ぎながら、視線をゆっくりと蒼星石へと移す。蒼星石は買い物袋の中身を取り出しつつ吟味していた。
「ちくわに大根…昆布にさつま揚げ…。今夜はおでんだね?」
「あ、よくわかったですね? そうですよ。時間かけて煮込むですから」
できるだけ普通に返すと、蒼星石は嬉しそうに「楽しみだ」と返してきた。
袋の中身を仕分けし、冷蔵庫に詰めて入れていく。
翠星石はただそんな姿を見ているだけだったが、ふと感じた違和感が、衝動で口に出ていた。
「…あ、あの…蒼星石…、さっ──」
"さっきのことは?"
訊いてどうする? わざわざ自分から結論を急くような…。
だけど……
「さ?」
「あ、えっと………、さ…さ…、寒いですよねぇ! もう凍えそうですよ〜」
大げさなくらい声を張り上げて振舞う。蒼星石は一瞬目を見開いたが、すぐに笑みを零した。
しょうがないなぁ、と苦笑しながら、冷蔵庫の仕分けに戻る。
翠星石は明るさと平静を保ちつつ、視線を蒼星石に向けたまま、思考を巡らせる。
いつもと同じ、蒼星石の態度。
いつもと何も変わらない口調は、先程の出来事をただ混乱させるばかりで。
(…どういうことです…? あれは…思い過ごし…?)
堂々と白昼夢でも見ていたのだろうか。それともただボケていただけ…?
どうにか必死に思考回路を繋げようと試みるが、引っ掛かりが取れず、ますます混乱するだけ。
頭を抱えうんうん唸る姉に気付き、蒼星石は仕分け終わった空袋を処理しながら声をかけた。
「頭どうかした?」
「へっ!? あ、いえ! 何でもないです!」
「痛むの? 風邪でも引いたかな…」
そう言って近付いてきて、額に掌を当てようと伸ばしてきて───
「…っ! だ、大丈夫ですよ。き、着替えてくるです!」
慌てるように顔を逸らしそのまま部屋を出て行く。
急ぎ階段を駆け上がっていって、自室へと駆け込み、ドアを閉める。
ドアに背を預けもたれたまま、上がった呼吸を繰り返す。
胸を打つ音の騒がしさは、変わらず。
さらに激しさを増したように加速していく鼓動が、今の自分の行動を見透かしているようで。
(…やっぱりあれは…何でもなかった、です…?)
急かす胸を鎮めるよう言い聞かせる。
──そう
"あれは、何でもなかった"
☆
学園から帰ってからの午後は、いつも通り自宅で過ごすことが多い。勉強も兼ねて図書館に行くこともあるが、それも天候による。
生憎と今日は午後から雨の予想で、つい先程から曇っていた空が今はもうすっかりと暗くなってしまった。
『────────』
一階の部屋に響く音は、テレビからの音声。
ニュースにバラエティーにドラマ…それぞれのチャンネルごとに声の音量が上がる。
「蒼星石〜? さっきからチャンネル替えすぎですよ。何やってるですか?」
キッチンで夕飯の仕込みをしながら、その部屋と繋がっているリビングでテレビを観ている妹に声をかける。
呼びかけに「んー」とだけ答えて、蒼星石はまたテレビのリモコンのボタンを押す。
画面が移り変わって、CM中の番組が映る。今夜放送のドラマの宣伝が流れていた。
「あのドラマか…。今日も観るなら録画しとかなくていいの?」
「大丈夫ですぅ。抜かりはないですよ」
得意げに鼻を鳴らす。「そう…」と呟いて、蒼星石は視線をテレビに戻す。
翠星石はそんな様子を見ながら、蒼星石に気付かれないよう、安堵のため息を漏らした。
やっぱり、いつもと同じ。
きっと朝のあれは…そう。きっと自分の思い過ごし。
考えすぎて頭がおかしくなっていたのかもしれない。切羽詰まりすぎて事を大きくしていただけなのかも、しれない。
(いえまぁ…はやく返事をしなければいけないのは変わらないですけどね…)
そう。いずれにせよ返事はまだ返していない。遅かれ早かれ伝えなければならないことに変わりはない。
傷つけるのは怖いけれど、ずっとこのままでいていいわけがない。結論がすでに出ているのならば、なおさら。
まったく情けない姉だ…と思う。はっきりしなくて、曖昧で、強気だと思っていた自分とは思えないほど弱気な様。情けなさを通り越して大馬鹿者だ。
「……はぁ」
「今度はため息?」
「ひゃあぁあああ!!?」
すぐ後ろで声をかけられ、思わず大絶叫する。飛び出しそうになった心臓を押さえ、振り向く。
「やっぱり具合が悪いんじゃないの?」
「だだ、大丈夫ですってば! 翠星石は全然元気ですよ?」
「ふーん…。ならいいけど。いい匂いだね。出来た?」
怪訝そうな視線を向けながらも、蒼星石は姉の肩越しに顔を覗かせる。
ぐつぐつと小さな音を立てて煮立つ鍋から、独特のいい匂いが漂ってきた。
途端腹の虫が鳴る。思わず手を伸ばしかけたところで、寸止めされる。
「あ、だーめです。まだ煮込んでる途中なんです。出来上がるまで待つですよ」
「いいじゃないか少しくらい。味見なんだし」
「だめったらだめですこのつまみ食い泥棒。おとなしく待ってないとお預けですよ」
「…ちぇ」
またしても姉に背中をぐいぐいと押されるまま、リビングへと戻る。
しぶしぶながら戻った妹に一息ついてから、もう一度言葉を付け足した。
「あ、そうです。その間にお風呂でも入ってきたらどうですか?」
「お風呂?」
「お風呂入って、出てきた頃が食べ頃ですよ〜」
もう沸かしてありますから、と付け足して促す。
蒼星石は少しの間考えていたようだったが「わかった」と返事をして部屋を出て行った。
僅かな間隔を置いて、階段の上り下りの足音と、浴室の戸が開く音が聞こえてきた。
☆
空が黒い雲に覆われ、夜を告げる。
遠い空から、雷鳴が響き始めた。
『今夜から明日にかけては、雨風が激しくなるところがあり、雪になる恐れも───』
つけっ放しのままだったテレビから天気予報の声が流れてくる。
夕飯の用意を済ませた翠星石はそんなニュースを眺めつつ、入浴が終わるであろう蒼星石を待っていた。
「雪ですか…散々な天気になりそうですね」
ぼやきつつ窓際へと向かう。閉めているカーテンを少し開いて、外の様子を伺う。
真っ暗ではあるが、今はまだ雪も雨も降ってはいない。
雪となれば交通機関にも影響は出るのだが、それより何より、まず布団から出ることができなくなるから困りもの。
いつもいつも時間ギリギリまで布団の中で毛布にくるまっていることが多く、そのことで蒼星石に何度か注意も受けたりもしている。
でもやっぱり、あたたかい布団の中で襲ってくる睡魔には勝てまい。
小さくため息をつきつつ、薄く開いたカーテンを戻す。閉めたと同時、ドアの開く音と、足音。
「何、またため息ついてるの?」
洗ったであろう髪をタオルで拭きながら、蒼星石は姉に声をかける。
どこか呆れたような風に聞こえるのは、心配している故なのか。ドアを閉め、すたすたと歩いてきた。
「今日は随分とため息が出るんだね。どうかした?」
「だ、だから何でもないですって。明日天気が悪いらしいって聞いたからです…」
「あぁ…雪になるって話だからね」
言って、視線をテレビに移す。天気予報のニュースは続き、降水確率やら週間天気やらが流れていた。
ふたり揃って気象情報を見終わったところで、テレビの時刻が9時を告げる。
その時刻表示に、翠星石は気付いたように声を上げた。
「あっ! そうです! はやくご飯食べないとドラマが始まるですよ!」
「毎週毎週よく観るよね。そんなに面白いの?」
変わらず髪を拭きつつ訊いてみる。どたばたと食器を並べ始める翠星石は嬉しそうに頷いてみせた。
蒼星石はただ「ふーん」とだけ相槌を打って、食卓の椅子に腰掛けた。
すでに用意されていた夕飯の数々が、目の前に並ぶ。
とうに空腹の臨界点を超えていた腹が、そのおいしそうな匂いが漂ってきたことで崩壊した。
いただきます、と軽く手を合わせ箸を取り、がっついた。
「あっ蒼星…。…まったくしょうがないですねぇ」
相当お腹が空いていたらしい妹に苦笑する。先のつまみ食い禁止は、少々やりすぎだっただろうか。
そんなことをうっすらと思いながら、ご飯茶碗を渡しつつ、小さく息をついた。
「慌てずゆっくり食べるです。多めに作ってありますから」
「ん、ごめん。お腹空いてたから、つい…」
「味、薄くないですか?」
「全然。おいしいよ、すごく」
嬉しそうに微笑む蒼星石に翠星石も微笑み返す。
久しぶりに嘘のない笑顔を交わした気がした。今まではちょっと、気まずくなっていただけ。
いつまでもこんな風に…笑い合っていられればいいのに。
談笑混じりの夕食が終わり、時刻はもうすぐで10時にさしかかろうとしていた。
食器の後片付けをしながらの翠星石の耳に、リビングのソファーに座る蒼星石が声をかけてきた。
「ドラマ始まるよー」
「え? あ、ちょ、ちょっと待つです!」
最後の食器を洗い終えて、急ぎリビングへと向かう。
CM終わりの入りのところだったらしく、どうにか間に合ったようだ。
どっとため息をついて、ソファーに座る蒼星石同様腰を下ろした。
アバンからOP、そして本編。続きが気になっていた翠星石は目を輝かせながら画面に見入っていた。
コメディタッチを加えた、何とはないドラマ。恋愛一色でもないし、またギャグ一直線でもない。
コメディをメインしつつもシリアスあり感動ありの、…観る側からすれば面白いものなのだろう。
(……)
続きに見入る姉と違い、蒼星石はそれほど画面に集中してはいなかった。
確かに面白いものだとは思うが、別に続きを期待してまで観たいとは、到底思わない。
翠星石が面白いと言うから、それとなく観てみようかと思っただけ。
「あ……っ」
不意に漏れた姉の声に、画面から視線を外していた蒼星石は顔を上げた。
そこに映っていたのは別にこれも何とないシーンのひとつ。恋で悩む主人公の相談に親身になって答える友人。
『避けられてる?』
『うん…。まず会話が続かなくてさ…』
『告白はしたんだっけ?』
『したよ。でもその返事も来ないから…もうだめかなって…』
そこでどっとため息をつく主人公。友人の子も悩ましげに頭をひねるばかりで。
(……)
当然のごとく予想される展開。…だとはわかっていても、どこか興味を引かれるものがあることに蒼星石は気付いていた。
一見どこにでもあるような光景に見えるそれ。だけど。
『じゃああきらめる?』
『それは……』
(……)
蒼星石は画面から目を逸らさず観ていた。対し、今度は翠星石が視線を外し俯いていた。今の今までの陽気さが嘘のように。
今回は恋愛が主体だったようで、後半部分はほぼ主人公の恋模様の様子が描かれていた。
「どこ行くの?」
画面から視線を外さぬまま、蒼星石は静かに口を開く。自分の横、不意に席を立った少女に。
「まだドラマ終わってないよ」
「…あ、あ〜えっと…、片付けです! まだ全部は終わってなかったですから…」
些か早口で言い終えて、その場から逃げるようにそそくさと流しのほうへと向かっていく。
まだ背後からドラマの声が聴こえる中、先程洗い終えた食器を片し始めた。
まだ充分に乾いていない食器を布巾で拭きつつ、急かし始める鼓動を抑え込む。
(どうしてこんなときに…)
心に込み上げる苛立ちは、自分に対してだけではなくテレビにも向けられていた。
まるで今の自分たちのことを表すかのような、できたドラマ。都合のいいような回。
当然それは思い違いではあるが、よりにもよって今、このタイミングで観るようなドラマではない。
(タイミング悪すぎです…)
確認しておくべきだった。まさか今回の内容がこんな恋愛ものであるとは、思ってもみなかった。
しかもそれを蒼星石といっしょに観ることになるなんて…これも予測不可能なことだった。蒼星石は…恋愛ドラマに興味がないから。
ちらりと見た蒼星石は、じっと画面を見つめたまま微動だにしない。何を考えているのか、その冷静な表情からは読み取れない。
その内容を…どう捉えているのだろうか…
「告白。」
「えっ!?」
びくっと、肩が震える。振り向いた先、蒼星石の視線は未だ画面に向いたまま。
「返さないんだって、その娘」
「…へ、へぇ〜、そ、そうなんですか…」
できるだけ普通を装って返し、視線を前に戻す。カチャカチャと小さな音を立てて、ひとつずつ食器を棚に戻していく。
もう心音が異常な数値を発信している。もし緊張で人が死ねるかと問われれば間違いなく「はい今死にます」と即答できるに違いない。
「ふーん…この二人どうなるんだろうね」
「そ、そうですね…」
そんなぎこちない途切れ途切れの会話は、ドラマが終了するまで続いた。
部屋の空気は、気まずいを通り越したほどに重苦しい雰囲気が漂う。
その空気の中で、ゆっくりゆっくりと食器を片付けていた翠星石の手は未だ止まることなく、部屋にはまだ小さな音が響くだけ。
「………」
「………」
もうすでにテレビからは別番組のニュースが流れているが、翠星石には気にしている余裕はなかった。
ずっと沈黙を守っている蒼星石の態度が、余計に心配になってしまう。鼓動が、加速していく。
「………あのさ」
(!)
どきっ、と胸が高鳴る。低く呟かれた声は、ゆっくりとこちらに語りかけられる。
背を向けている格好のため蒼星石の顔は見えないが、きっとじっとこっちを見つめているはず。
視線が、痛い。
「君に訊きたいことがあったんだけど」
「…なん、ですか…?」
一向に鎮まらない鼓動。激しさを増すのみで、再び軽い眩暈を引き起こした。
核心を突く質問(こたえ)が、迫ってきているのがわかる。
手が震える。食器を落として割らないよう注意を図るが、今はそれも難しいかもしれない。
いつ落として割れるか、いや、割ってしまうか、わからないから。
急かす鼓動のまま、思考を巡らせていた、次の瞬間。
(……!)
思考が、停止した。
後ろから───抱きすくめられていたから。
「…蒼……星、石……」
紡いだ名に声を返さず、蒼星石はそのまま翠星石の首筋に顔を埋めた。
サラサラとした髪が、首元を掠める。くすぐったさを覚えた翠星石が小さく身じろぐが、蒼星石は離そうとはしない。
激しく胸を打つこの音が、蒼星石に聴こえているかもしれない。そんな錯覚に駆られ、翠星石は眩暈を覚えた。
思考を練ることもできないまま、不意に、蒼星石が口を開いた。
「今朝のこともそうだけど、僕もまだもらってないよ」
蒼星石の声が、すぐ傍で…耳元で聴こえる。
声が返せず、ただ、体が震えるだけ。
「君から告白の返事…まだもらってない」
身体が大きく震えた。目の前が、暗くなる。
追い討ちをかけるように、ただ言葉は紡がれる。
「いつ…聞かせてくれるんだい…?」
耳元で囁かれた言葉は、それだけ。穏やかな声色で、でも真剣な声。
「…え…、──」
身体全身の力が抜けたような衝撃が襲う。
足に踏ん張りをかけてはいるが、力を入れている感覚さえ判らない。
思考が、何も繋がらない。
腹部の前で交差していた掌が、そのまま腕を伝い掌を取る。
「……ぁ…」
掌を取られた途端、持っていたグラスが床に落下し、音を立てて割れた。だが蒼星石は気にした様子もなく、翠星石を抱き締めるだけ。
身動きが取れないように両腕で抱きすくめた体は、力を込める度に小さな悲鳴を上げる。"痛い"と、叫ぶように。
後ろから抱きすくめられたまま、翠星石はただ体を震わせるだけだった。
思考が死んで、もはや何も考えられない。ただただ、押し寄せてくる言葉に、震えるだけ。
蒼星石の掌が、頬を撫でる。髪を掠めるのは、彼女の吐息。ふわりと触れる程度のキスが、髪先に何度も降りる。
耳の裏、頬、首筋に、ふっ…と息がかかる。軽く唇を寄せられただけでも、身体が大きく震え、強張る。
ゆっくりと顎を掴まれ、顔が向き合う。蒼星石が顔を近づけてきて───
「──、やっ…!」
咄嗟に、顔を逸らした。蒼星石の胸を押し返しそのまま腕を解いて…離れた。
「………」
蒼星石は然して狼狽も見せぬまま、距離を置いた翠星石を見つめる。
互い違いのオッドアイに浮かぶのは、動揺と不安と、微かな怯え。カタカタと小刻みに震える肩が、その心情を表しているようで。
だけど……
「…ぁ…っ…、蒼せ…、これは違…っ」
咄嗟の行動を悔いる。今自分は何をした? 蒼星石に、どんな態度を取った?
あってはならないこと、取ってはならない、一番…してはいけない態度。
──"拒絶"──
「……それが、君の答え?」
翠星石は答えない。否、答えられない。違うと言いたいのに、言葉が出てこない。
互いに言葉もないまま、ただ時だけが過ぎていく。
暫しの間時間が止まったようにその場に立ち尽くしていたふたりの空気を裂いたのは、蒼星石だった。
距離を置く姉に近付いていって、ゆっくりと、その横を通り過ぎる。そのまま何も言わず、部屋を出て行った。
重たげに開いたドアと、響きを残す足音。そして、耳に残る声。
夜に降りた沈黙は消えることなく、いつまでも翠星石の胸に響き続けていた。
空が、しとしとと泣き始めた。