傷ついてもよかった。


彼女を振り向かせられるなら。





  空ばかり見ていた(3)




雷鳴が響く。雨脚が、強くなる。
吹き荒ぶ風が今の気分を煽るようで、蒼星石は緩く眉根を寄せた。

時刻はもうすでに深夜の3時を廻っている。蒼星石は睡眠も取らず、自室で一人机に向かっていた。
部屋の電気ではなく机に備えられた小さな電気スタンドのみで視界を照らし、参考書を開いていた。
CDやラジオなど無いため、部屋に響く音はノートをシャープペンが走る音だけ。
しかしながらそんな微かな音など外からの激しい雨音で掻き消されてしまうのだが。


ふと、ノートを書く手はそのまま、もう片方の手を伸ばす。
机の棚にある辞書を取り出そうと手をかけたところで、止まる。


「…?」


伸ばした指先が求めるもの捉えない。
違和感を覚え伏せていた顔を上げ棚へと移す。視線の先に探し求めるものの姿は───ない。

(──ああ、そうか…)

翠星石(姉)に貸したままだった。
ここに来てようやくそのことを思い出し肩をすくめる。何故最初に気付かなかったのか。

ないなら仕方ない…と半ばあきらめ、一息つく。返してもらおうにもこの時間帯で姉が起きているはずがない。
まぁ必ずしも必要だったわけではないし、なくとも自力で解くことはできる。姉とは違い、不得意科目はさほどないから。
だから今思う"何か"は…きっと別の感情(もの)。


(………)


茫然と参考書へと視線を落とす。何度も何度も使い古した参考書のページは、もうボロボロだった。
そろそろ新しい参考書でも買いに行きたいところだが、今はそんな気分にもなれない。
つい先程…本当に数分前まで勉強していたというのに、何だかぼやけてくる。頭に入ったはずの数式が…解けてゆく。

(…疲れてるんだ)

ここ連日の徹夜のせいだろう。疲れ気味なのかもしれない。
そうでなければ、何が自分をここまで苛立たせるのかが解らない。

きっと疲れているだけ…
言い聞かせるように再度一息ついた先、不意に机の上のものが目に留まった。
目のつく場所に置かれた、小さな写真立て。写っているのは紛れもない、自分と…姉である翠星石。
中学の入学式に撮った写真だった。新品の制服を着たふたりが仲良さそうに手を繋いで写っている。

「……なつかしいな」

当時の頃を思い出し小さく笑う。手に取って中の写真を取り出してみる。
そしてその裏…写真の裏には、あの頃ふたりで書いたメッセージが刻んであった。

「"ずっといっしょ"…か」


『翠星石と蒼星石はいつもいっしょですよっ』


昔の頃の姉の口癖が脳裏をよぎる。いつもいつも、ふた言目にはそれで。
その言葉を懐かしむほど、そんなに歳月は過ぎていないはずなのに、何故かとても懐かしく思える。
最後にその言葉を聞いたのは…いつだっただろう。

いつから言わなくなった? ──いや、言わせなくした原因は、何だ…?


…解っている。妹である自分のせいだ。姉の翠星石への恋心を自覚してから…きっと少しずつ狂い始めた。
あの告白以来…本当に少しずつだが、翠星石から笑顔がなくなっていった。笑いかけてくれることが…少なくなった。
笑顔さえも奪った理由も理解している。だがどういうわけか、反省している自分がいない。
"悪いこと"をしたと思う自分自身が…まるで存在しない。


「…僕は…」


最低だろう。自分の姉の笑顔を奪っておいて反省の色がないなど…どうかしている。
だけどそれでもなお、自分は悪くないと言い聞かせる"声"がある。

もう一度写真へと目を戻す。やわらかな表情で微笑う姉は、何よりも輝いていて、誰よりも綺麗で───…
この笑顔を自分以外の誰にも見せたくないと思うようになったのは…きっと必然だった。
誰よりも傍に居たくて、…──そう、たった一秒でも長く…


なのに。
"あの"告白が…全てを一気に壊していった。今までの関係に耐え切れなくなった自分が…それを全て崩していった。

不意に、先程の出来事が脳裏によみがえってくる。
抗った彼女の声が…まだ耳に残ったまま、消えない。いや、きっと消えることはないだろう。

解っていた。彼女の気持ちなんて。その答(応)えが"NO"であることくらい…容易に想像できていた。
誰よりも長く、誰よりも傍で生きてきた彼女の気持ちなど…手に取るように。

だけど。どこかで期待していた。返事が来ないのは迷っているからだと…。望みが、あるのではないかと…。
告白をして…返事が来ぬままひと月近くは経つ。返事が来ないことに焦れた自分が…その結論を急がせた。
彼女なりに考えていたかもしれない。嘘のつけない…まっすぐな少女だから。
どう言えば妹(ぼく)を傷つけずに済むのか…きっと一生懸命悩んでいたのだろう。
それを───


(…バカだな)


急かすように圧力をかけているのは、他でもない自分だ。
こんなピリピリした態度をしているなら、彼女のガードが固くなるのは当然のこと。怯えられても仕方がない。


翠星石が、素直な心を偽れるはずがないのに









同時刻。翠星石も自室で一人机に向かっていた。
しかし勉強の手など少しも進まず、ただぼんやりとするだけ。視線は参考書に向いていても、頭はまったく別のことを考えていた。

「…蒼星石…」

小さく呟く。不意に歪みそうになる視界を振り切るように、緩く頭を振った。
名を口にする度に、あの時の蒼星石の顔が浮かび上がり、胸が締め付けられる。

──もう…どうしたらいいのかがわからない。
どうしてもっと早く言わなかったのか。どうしてあんな態度を取ってしまったのか。
どうしてもっと…あの子の気持ちを考えなかったのか。

あの子が…蒼星石がどんな思いでずっと姉(わたし)を見ていたのか、何故もっと考えなかった…?

"いつもと同じ"なのではない。蒼星石が"そう"してくれていただけのこと。
姉の私が変に気まずくならないように…気を遣って接してくれていただけ───…

つらいのは姉である自分ではなく、蒼星石のほうだというのに。返事が来ずに、ただ待つだけの日々を、ずっと…

いったいどんな思いで…───


「…最低です…っ」


いつもいつも自分のことばかりで嫌になる。依存や甘えの重度もいいところだ。
傷つけるのが怖いと言いながら、結局は自分が傷つきたくなかっただけ。自分勝手すぎる判断。
蒼星石が怒るのも無理はない。いや、怒って当然だ。嫌われたって何も言えない。

逃げていた自分への罰。いい加減にしろと頭が叫ぶ声が聞こえる。

「…そうです…、こんなの…だめです…」

今度こそ。自分の口で、はっきりと。
待たせすぎたことも、今までの態度も、全部謝らなければ。もういい加減に逃げてられない。

蒼星石の気持ちは、痛いほど伝わってくる。だけどそれでも…応えることはできない。
偽って付き合うことはできないことを…、ちゃんと告げなくてはだめだ。
現実はきっと蒼星石を傷つけてしまうけれど、きっと精一杯に伝えれば…蒼星石ならわかってくれる。

翠星石は心を決め、ゆっくりと自室を出て行った。



蒼星石の部屋の前。一度だけ深呼吸して息をつく。遅い時間帯でも、蒼星石ならまだ起きているはずだ。
もう一度息を吸い込み、ゆっくりと吐く。そして顔を上げ、手を伸ばした。









「!」


不意に部屋の戸を叩く音に蒼星石は思考を戻した。
こんな時間に誰が、…と考えて、すぐに振り払う。
訪れる人物など、一人しか居ないのに。


『あ、あの…蒼星石…起きてるですか…?』


───やっぱり。

小さくため息をついてから、椅子から腰を上げる。
戸の前まで歩いていって、ゆっくりと、扉を開けた。

部屋の前で立っていた翠星石と、目が合った。

「…何?」

自分でも思うほどに冷めた声。翠星石が一瞬戸惑いを見せたが、すぐに捲くし立てた。

「あ、あのっ…これ…辞書返しに来たですよっ…」
「…ああ、別にいいのに」
「で、でも蒼星石のですから返しますですよ。あの…」
「立ち話も疲れるでしょ。入っておいでよ」

ドアを大きく開けて、入るよう促す。少し考えた後、翠星石も部屋の中へと足を進めた。
蒼星石もやはり勉強中だったようで、電気スタンドが点いたまま、参考書の束が机の上に積み重なっていた。

「…目が悪くなるですよ」
「あぁ、そうかもね」

受け答えは、どこか投げやり。でもそれも自分のせいだと、翠星石は痛感していた。
蒼星石は気にした様子もなく再び椅子に腰掛け、机に向かう。

聞こえるのは、ただ激しく音を打つ雨音と雷鳴。
沈黙した部屋の空気はなくなることなく、保たれたまま。
ふたりに会話は、ない。


そんな沈黙を裂いたのは、翠星石。


「……あの…蒼星石……話したいことが…」
「何? …あぁ、どこかわからない問題(ところ)がある?」
「え?」


いきなり何を…と思った矢先、蒼星石が参考書と問題集を捲り始めた。翠星石の苦手とする理系。
翠星石は言われたことを理解するが、そういうことではない、と言おうとした直後遮られた。
問題集を手渡され、問われる。

「何ページ?」
「え? えっと…32ページ……、あ、いえ! そうではなくて…っ」
「32ページ…」
「蒼星石っ…あのっ…!」
「32のどこ?」
「へっ? あ、問4……、いえ、だからそういうことじゃなくてですね!」

一変していつものやり取りに戻る。いつもこうしてふざけ合いながら、ふたりでずっと勉強していたのだ。
だが翠星石にはわかっていた。これも蒼星石が気を遣っているのだと。
普通を装って振舞おうとしている姿が…"それ"を理解した上でなおのこと痛々しい。もう、そんな姿など見たくないから。

このまま流されそうになるが、それではだめだと言い聞かせ、話を戻そうと問題集を閉じた。

「問4…。ああ、この公式は……」
「っ…蒼星石! ……勉強のことじゃなくて……お話ししたいことが…、…あるんです」

声は小さかったかもしれないが、それでもはっきりと告げる。
告げた途端、蒼星石の目の色が変わった気がした。微妙な変化が…垣間見えた、そんな確信。

蒼星石が問題集から顔を上げ見つめてくる。その異瞳には今のようなふざけなどなく、真剣そのものだった。
異瞳が出会った瞬間、大きく胸を打つ音が聞こえた。
それは始まりを告げる音か、それとも終わりを告げる音か。

「……。告白のこと?」

穏やか声色に、翠星石は小さく頷く。揺らぐ異瞳。だが、その色に迷いはなかった。
少なくとも、蒼星石には…そう思えた。"本当の答え"が…見つかったのだと。

だけど。

「さっきは…あんな態度とって……ごめんなさいです……。いきなりで…びっくりして…」

じっと見つめてくる蒼星石の視線を浴びつつ、言葉を繋いでいく。ゆっくり、ゆっくりと。
手が震え体が震え…声も震えてくる。だが、言わなければ伝わらない。

「ずっと考えて…でもいえなくて……。蒼星石、のこと…傷つけたくなくて…」

そう言って自分を言い聞かせて、逃げていただけ。
何でもないように見せかけて、振舞おうとしていただけ。
蒼星石のことも、考えもせずに。

「蒼星石のこと……大好きです。小さい頃からずっとずっと大好きでした………。でも…」
「じゃあ応えてくれる?」

翠星石の次の言葉を遮るように蒼星石が口を挟む。「え?」と言葉を詰まらせ、翠星石は目を見開いた。
絡んだ異瞳に怒りはない。妹のオッドアイには、ただ、穏やかな色があるだけ。それは姉にだけ見せる、ただひとつの表情。

見つめあったままだった視線を、翠星石はゆっくりと落とす。
そして言われたことを反芻し…申し訳なさそうに、ぎこちなさそうに、首を横に振った。

「……………できない、です…」
「どうして?」
「…貴女は……大切な家族です。私の……大切な…」
「"妹"だから?」

問いかける"妹"の声。そのやわらかな声色に、翠星石は俯いたまま口を噤んだ。

胸が痛い。小さかった軋(いた)みが、徐々に音を上げていく。
視界が歪みそうになるのを振り切るように、ゆっくりと口を開いた。

「………蒼星石のことを…恋愛対象に見ることは………できないです…」

震える声で、小さく。でもはっきりと。今の自分の正直な気持ちを。
蒼星石は答えず、視線をゆっくりと参考書に落とした。


また、雨音が強くなる。
遠空に響いていた雷が、近付き始めた。


沈黙が流れ、数分。言葉を返さない蒼星石に、翠星石はもう一度、言葉を紡ぐ。
蒼星石ならきっとわかってくれる…────そう信じて。

「…だから……私のことはあきらめ──「嫌だ」

翠星石が言い切る前。蒼星石の声が遮る。今までの穏やかさの消えた、鋭い声。
驚いた翠星石が顔を上げるが、蒼星石は視線を合わさぬまま、もう一度椅子に座り直した。
ギッ…と重くのしかかる鈍い音が部屋に響く。視線を机の上の参考書に向けたまま、口を開いた。

「絶対にあきらめないって、最初に言ったはずだけど?」
「それは……。で、でも…っ」
「君には今恋人も好きな人も居ない。それで「あきらめろ」なんて言われるのは心外だ」

呆れたように小さく笑う。姉の心底驚いたような表情を見ると、ただ、笑いが込み上げてきて、止まらない。
くくっ…と渇いたような笑い声が、───部屋に谺する。

「…蒼……星石……」

狂ったように笑い続ける妹に、背筋が凍るような感覚に襲われる。
今まで見たこともない表情。聞いたこともない声───

胸の中にまたひとつ何かが生まれる。恐怖にも似た感情…否、それすらも凌駕するほどの"何か"が、押し寄せてくる。

蒼星石は変わらず笑みを零しながら、ゆっくりと翠星石に向き直る。
怯えの宿るオッドアイには、いつもの彼女らしい光などなかった。
その表情すらも自分がさせているもの…。先程まで罪悪感のあった気持ちが…無くなっていく。

「僕はあきらめる気はないよ。何があっても…」
「…っ…蒼星石の、気持ちは…すごく嬉しいです…。でも…困るんですよ…」
「へぇ…迷惑?」
「そうじゃない、です…でも…応えられないんです」

好きだけど、それは家族として。
付き合うことができないわけではない。でも、それはきっと長続きしないから。
自分の気持ちを偽って付き合うことは…相手をもっと傷つける行為になる。
だから、たとえどう思われても、嫌われたとしても、嘘をつくことはできない。

「私のことは……あきらめて、ください…」
「……嫌だって言ったと思うけど」

蒼星石も譲らない。あきらめろと説く姉に、ただ「嫌だ」の一点張り。
しれっとしたような蒼星石の態度に、翠星石も次第に苛立ち始める。それは幼さの残るような、子供のような怒り。

わかってくれると思ったのに。
蒼星石なら、残念がるかもしれないけれど、きっと理解してくれると…───そう思っていたのに。

「……困るって言ってるですのに……どうしてわかってくれないんですか…」
「嫌だって言ってるのにどうしてわかってくれないのかな」
「…! 困るんですよ…! 想われたって…蒼星石の気持ちには応えられないです!」
「僕の気持ちは変わらないけど」
「翠星石の気持ちだって同じです! 絶対変わらないです!」


言い放つ。

険悪な雰囲気が部屋に漂う中、静かに、声が響く。


「……へぇ。"絶対"…か。大した自信だ」
「………」
「つまり僕を恋愛対象として見ることは一生ない…そういうこと?」

翠星石は何も言わない。言わず、揺らぐ異瞳を蒼星石に向けるだけ。
それでも、言い訳はしない。だって、はっきりさせておかないといけないこと。

「………お話は以上です。もう戻るです」

随分と回りくどくなってしまったけれど。とりあえず言いたいことの全ては吐き出せたはず…
蒼星石の視線に耐えられなくなったように、翠星石はそのまま踵を返した。部屋を出て行こうと扉を開けた直後、足が止まる。

開けた扉がすぐに閉じる。その視界、後ろから伸びてきた腕が、扉を押さえていた。
そして自分のすぐ後ろ───蒼星石の声で、体が止まった。


雨音が強く、雷鳴が響く。
激しく打つ雨が、ただ、胸に降り続ける。


薄暗い部屋に佇む二つの影は、その場を動かず、ただ立ち尽くすだけ。
言葉も交わさぬまま沈黙が降りる中、蒼星石が口を開いた。
怒りや棘の無い、いつものような声色で。


「……本当に変わらないの? ずっと…?」


最後の望みをかける。本当に、"そう"なのかと。


「…………ごめん…なさい………」


小さい声ながらも零れた言葉は、肯定の言葉。


「……………そう」


低く呟いて、姉を解放する。翠星石はそのまま、部屋を出て行った。


机へと戻り再び椅子に腰を下ろす。不明な脱力感に見舞われ、どっとため息をついた。
茫然としたまま、机の上に積み重ねていた参考書や問題集を、腕で退かすように乱暴に床に叩き落とした。
乱雑に散らばる参考書もそのまま、天を仰ぎ、呟く。誰にとも聞こえぬほどの、小さな声で。


「はは………振られちゃったよ…」



吹き荒ぶ風。耳障りな雨音。鳴り響く雷鳴。
己の心に翳っていたものが、再び闇へと包まれる。
胸の奥に谺する音(こえ)は────一向に晴れる気配を見せなかった。









長かった夜が明ける。
翠星石は少々の肌寒さと寝苦しさで目を覚ました。

部屋に戻ってベッドに潜り込んだのはよかったものの、つい先程まで置いていたテキストやら何やらが放りっぱなし状態で。
しかもそれを一時的にベッドに置いたまま忘れていたらしく、そのまま寝入ってしまったようだ。
そんなことにも気付かずに寝過ごしてしまうとは……

(翠星石も金糸雀並みのおばかな脳を持ってるかもですね…)

ため息をひとつ漏らしてから、起き上がる。いつも目が覚める時間より早く起床したらしく、目覚ましはまだセットされたまま。
目覚ましを止めて、カーテンを開ける。まだ若干薄暗さはあるが、明るい空が覗いていた。

そして目に入ってきたものは、視界を埋め尽くすほど染まった、白銀の世界。
夜中のうちにしんしんと降り積もっていったのだろう。そこまで深くはないが、数センチは積もっているようだ。
昨日は雨やら雷がずっと鳴り響いていて、そのせいもあってかあまり寝付けずにいた。
…もっとも、それ以上に寝付けない理由は存在していたのだけれど。

(………)

不意に昨夜のことが脳裏に思い浮かび、緩く頭を振った。
やっと…ちゃんと自分の言いたいことを言えたのだから。気まずいけれど、何も言わないよりは動けたはず。
傷つけてしまったことは…今も胸が痛い。締め付けられるような痛みは…きっとあの子のもの。
今更後悔しても遅いというのに……

「!…」

不意に、部屋の扉の外から音が聞こえた。向かいの蒼星石の部屋の…扉の開閉音。

起きている。蒼星石ももうこの時間で起床している。
部活の朝練も兼ねていた頃はいつもこのくらい早かったが、受験勉強に集中するようになってからはいつも寝坊が定着していたのに。
また徹夜で勉強していた? それとも偶然早く起きただけ? それとも……


「蒼星石…っ」

考えるより先に行動に出ていた。
ガチャッと開けた扉の向こう、今まさに階段を下りようとしている蒼星石と、目が合った。

互いに視線が絡んだまま、言葉がない。
おはよう、のあいさつでもいいから何か言葉を…とも思うのに、翠星石は何も言えずにいた。
そんな言葉に詰まる姉を見透かしたように口を開いたのは、蒼星石。

「おはよう」

いつものようなやわらかな声と笑顔。
一瞬固まった翠星石だったが、すぐに蒼星石同様、笑みを零した。

「お、おはようです。今日も早いですね」
「そっちこそ。徹夜での勉強は控えたほうがいいって言っただろう?」
「だ、大丈夫ですよ…。ほ、ほら、下りるなら早く下りるです!」
「はいはい」

階段のそばで立ち往生する妹の両肩をぐいぐいと押して、翠星石も階段を下りていく。
蒼星石が先に一階へと下りた矢先、その後ろを続くように下りていた翠星石は、不意に腕を掴まれ足を踏み外した。
とす…っと軽い音を立てて、腕を掴んだ張本人──蒼星石の肩へと倒れ込む。

「…あ、…ご、ごめんなさ…」

慌てて離れようとするが、逆に抱き締められて離れない。
蒼星石は蒼星石で、悪びれる様子もなく、ただ翠星石を抱き締めるだけ。

真剣な声色が、翠星石の耳朶に響いた。

「昨夜の話だけど…僕も結論を出したよ」
「え…」

どきっと、胸が高鳴った。
結論…。やはりあきらめないという意志を貫くつもりなのだろうか…?

だが、蒼星石の口から紡がれた言葉は、翠星石の予想をはるかに超えたものだった。

「君のことはあきらめる。普通の姉妹として…これからは過ごしていくよ」
「! …本当、ですか…?」
「ああ。妹として…君を支えていく」
「──…」

脱力感が襲う。安堵のような…でもちょっと物寂しいような、不思議な感覚。

やっぱり、わかってくれた。蒼星石なら…きっと理解してくれると思っていた。
昨夜はあまりの頑固さに少々手を焼かされたが、理解を…してくれたのだろうか。

「あきらめて…ほかに好きな子を見つけるよ」
「…そ、そうですよ。蒼星石なら大丈夫です。すぐにいい人が見つかるですよ!」
「そう?」
「そうです! 翠星石なんかよりもっとやさしくて気の利いた子がきっと見つかるです!」

蒼星石の肩から顔を上げ、見上げる形で蒼星石と視線を絡める。
あまり感情を表に出さない蒼星石の表情には、憂いの色は伺えない。

蒼星石の優しさは、もう折り紙つきだ。いいところが多すぎて自慢してもし足りないほど。
勉強もできるし運動も得意だし家事もそこそここなせる。
容姿もそこらの男子とは比べ物にならないほど格好良くて。言葉遣いも申し分なく礼儀正しい。
態度は…(ちょっと)頑固ではあるし意地っ張りなところもあるし人当たりも冷たいけれど、基本的にはいい子で。

こんな素晴らしい妹を蔑(ないがし)ろにするような輩がいるならば、即座にその場で制裁を下すだろう。
きっとすぐに素敵な人が見つかって……自分の元を離れていく日が、来る。

「…蒼星石にはもっと素敵な人が似合うです。翠星石じゃ不釣合いですよ…」
「………」
「それに恋人以外の子抱きしめたりするのもだめですよ。誤解されるですから」
「………」
「きっといい人が見つかりますように…ずっと祈っています」

伝える言葉は、笑顔で。
でも、今自分はどんな表情をしているのだろう。ちゃんと笑えて…いるだろうか。
昨夜は突き放すように言ってしまったけれど、面と向かって言われると何故か思ってしまう。"寂しい"──と。
いつか蒼星石に自分ではない好きな人ができる…そのことが、今更になって、どうしようもなく寂しくなった。

どこまでも勝手で、わがままな…姉。


姉の言葉をずっと黙って聞いていた蒼星石も、やがて理解をしたように頷く。
笑顔の姉と同じように、嘘のない笑顔で。


「……ありがとう」



嘘のない笑顔と、嘘のない言葉。


偽りのないはずの会話や触れ合いが、知らず己の心を蝕んでいることに…まだ、気付かぬままだった。




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