そこは見渡す限り白の世界。
何一つとして存在しない空間。
音も、風も、光も、闇も──何もない。
在るのはただ、果てしなく続く白───
この、白い世界で
ここをどこだと考える頃には、時間が経ちすぎていたように思う。
否、時間の感覚すらもこの世界では無いに等しいもの。
ここは何もない、誰もいない、ただ虚ろな意識と自己のみで"ただ"そこに居るだけのもの。
──ぼくはだれなんだろう…──?
白の世界にただひとりだけ浮かぶ、己の影。人間とは異なる身体。
人形の身体は、通常に動く。手も、足も、ちゃんとある。でも、それだけだ。
自分が誰なのかということなど、記憶の片隅にすらない。欠片も──残ってはいない。
意識も、記憶も──総てがこの白に溶けてゆく。
…、──?
不意に、何かが聴こえた気がした。ここにはもう、何もないのに。
視線を彷徨わせてみても、やはり何もない。変わらずと白い空間が広がっているだけ。
物もない。人もない。音など…初めから聴こえない。
それなのに、足が自然と動く。無意識に、音の聴こえたほうへと向かっていた。
──あれは…
広がる白の空間に、ひとつの影。よく見るとそれは人のようで。
その場に座るように蹲って、顔を両手で覆い隠していた。…否、すすり泣いている、のだろうか。
地に届くくらい長い…栗色の髪をした、小さな女の子。ぼくと同じくらいの大きさの───人形…?
顔は見えないけれど、ひっくひっくとしゃくり上げる声と嗚咽だけが、響いていた。
否、実際に響いていたものは、もうひとつ。
「ぅ…っ…そうせいせき…そうせいせきぃ…」
少女の口から絶えず紡がれる、小さな声。
『そうせいせき』という名を、何度も呼んで。ただ、泣き続ける。
ぼくはただ、そんな少女を茫然と眺めているだけ。
触れることも、傍に寄ることも、何もしない。ただ、そんな様子を傍観しているだけ。
そんなことをする必要性が感じられなかったから。見知らぬ誰かのために、そんな、慰めるようなことなど──
それなのに。
「そうせ…せき…っ…どこに…いるですか…?」
どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。
胸の奥が締め付けられるように苦しくなって…張り裂けそうなほどの痛みが襲う。
どうして、こんなにも胸が熱いのだろう。
彼女の泣いている姿を見たくないと、頭が呼びかけるような、そんな錯覚。
ゆっくり、ゆっくりと、足を進める。
座り込んで涙を流す少女のすぐ前まで近付いていって──同じようにしゃがみ込んだ。
その気配に、少女はゆっくりと、伏せていた顔を上げた。潤んだ瞳は、右目が緋、左目が翠の色違いの双眸だった。
そっと片手を伸ばし、零れてくる涙を掬った。
「…なにしてる、です…?」
「泣いてた…から」
そう言うと彼女は再び泣き出した。がばっと、勢いよく抱きついてきて、声を上げて泣き続けた。
先程と同じく『そうせいせき』という名を呼び続けながら、ただぼくにしがみついて。
どうして『ぼく』を『そうせいせき』と呼ぶのか、わからなかった。名前なんて、とうに忘れてしまったのに。
この少女も、会ったことすらない、名前も知らない女の子。
なのにどうして…泣かないでほしいと願うのだろう。
どうして…抱き締めてあげたいと思うのだろう。
「きみ、は…誰だい…?」
「…わからない、です…?」
「……」
わからない。そう言おうとして、やめた。否、止まった。彼女がさらに強くしがみついてきたから。
ぎゅうっと擦り寄ってきて、ぐすぐすとすすり泣きながらも続けた。
「私の、こと…忘れ…っ、ですか…?」
「──」
ズキズキと痛む胸は、変わらず。さらに痛みを増していく。
彼女の涙声が、胸の奥の熱を全身に浸透させていく。
「ぼく…ぼく、は……」
何を言えばいい?何を言ってあげればいい?
たしかに名前は思い出せない。自分のことも、この少女のことも。だけど。
泣かないでほしいから。泣いている顔は見たくないから。
だから、今の『ぼく』に、言えることを。
「僕は…ここにいるよ」
そうだ。今ここに──彼女の傍に『僕』が居る。居てあげることができる。
身体の震えが止まるまで抱き締めることも、今なら。
「だから──もう泣かなくていい。…泣かないで」
彼女の涙が──澄んだ白い涙が、この白い世界に落ちて、溶けてゆく。
「──そうせいせき…」
その声は本当に小さくて。無意識に、彼女を抱き締める腕に力がこもった。
僕も同じく耳元で小さく、囁いた。
「翠星石」
耳朶を劈くような破裂音。
そして、暗転。
閉じていた瞼を開く。そこには、何もなかった。
目が覚めるのと同時に、夢の記憶が薄れていく。
掌に掬った水が指の間から零れるように、それは儚く、一瞬に。
もうすでに記憶の片隅にしか無いような記憶の断片を、手繰り寄せる。
泣いている女の子が居た。
栗色の長い髪をした…瞳の綺麗な女の子。
あの子はどうしただろう…?もと居た場所には帰れただろうか。
もう、泣いていないといいのだけれど───
胸を焦がす灯火が、ほんの少しだけ強まった気がした。
あの少女を腕に抱いていたときと、よく似ている。
心のどこかで、『忘れてはならない記憶』だと繋ぎ止めているのだろうか。
もしそうなら、もう一度───彼女に会ってみたい。否、逢いたい。
ゆっくりと一歩を踏み出し、歩いていく。
胸の奥を、記憶を、引き止める何かを、探し求めて───
そこは見渡す限り白の世界。
何一つとして存在しない空間。
音も、風も、光も、闇も──何もない。
在るのはただ、果てしなく続く白───